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鳥取県は古くから有名な産牛地の一つであるが、既に寛延2年(1748年)には、因伯2州に牛1万9847頭が、寛政7年(1795年)には牛2万3000頭が飼育されていた記録がある。藩の産牛馬に対する奨励施策も相当熱心なものがあり、丁度現在の県有牛貸付制度に類似した牛銀の制度を元禄8年(1695年)に定め、牛の購入資金を貸付して、これを年賦償還させる制度が設けられた。また、牛馬の売買交換を重要視した藩は享保5年(1720年)因伯2州の牛市場の日時、場所、区域を定め、以後新しく牛市場を開設する場合は藩の聴許を得なければ開設できない制度をつくっており、享保15年(1730年)には当時日本三大市場の一つである大山牛馬市が本格的開設の運びとなっている。 在来の因伯牛、竹田牛、日野牛等の和牛は、通有的美点として体質強健、性質温順、粗放な飼養管理によく耐え、肢蹄堅牢、肉質佳良等の特質を具備していたが、反面において小格、晩熟、後駆が貧弱で産肉量及び産乳量が少ない等の欠点も顕著であった。そこで明治年代にはいってから、はげしく変遷する時代の要請に応ずるように和牛の改良意欲が非常に高まってきた。そして本来の和牛の欠点を改めようとして外国種との雑種繁殖が行われ、明治10年代から40年代にかけて数種の外国種が輸入された。 当初は余りはっきりした方針もなく、種々の外国種が輸入されていたが、明治30年代に至って、鳥取県はブラウンスイス種との雑種繁殖によって改良しようということに方針が決まり、この輸入に拍車がかけられたのである。さらに明治39年西伯郡米子町で開催された第3回中国6県畜産共進会で雑種の評判が非常によかったのに刺激されて、本県産牛改良はブラウンスイス種が良いという結論に達し、翌40年の県議会において原産地スイスからブラウンスイス種雄牛を輸入すべしとの議決がされた。こうして明治41年、主任技師大野鱗三は欧洲に出張して県有種雄牛5頭、民間委託の種雄牛17頭の計22頭の種雄牛を直輸入した。当時、種雄牛の単価は120円位が普通であったが、これら直輸入のものは1頭1,200円位であった。雌牛の価格は米価を基準とし、大体玄米10俵が良い雌牛1頭の標準価格であったといわれている。 ところが、このようにして生産された雑種の能力はどうであったかというと、体型はよく整備され、早熟にして発育よく、後駆が充実して、泌乳量も多くなったが、反面において体格が大きすぎて飼料を沢山食い、体がゆるくなり、骨が太く、肢蹄が悪くなり、肉量は増加したが、肉質は劣り、動作が不活発となって、肉利用上も役利用上も零細な農家経営には非能率で、しかも不経済であるとの不評を買うようになった。丁度、日露戦争後の不況で雑種の価格は急激に暴落したために資産を預けた業者が続出した。その上に大正元年、姫路市で開催された第6回中国6県連合畜産共進会において雑種の成績が芳しくなかったので、和牛の改良方針を根本的に検討せざるを得ない状態に追いこまれた。 鳥取県は根本的に和牛改良方針を再検討し、改良和種として因伯牛の血統を固定することにし、県は大正7年因伯種標準体型を当時の畜産組合連合会に喚問して、翌8年因伯種標準体型を制定し、大正9年から畜産組合連合会で因伯種登録事業が始まった。その後大正15年及び昭和8年の2回に亘って標準体型を改正して鋭意改良に努め、また昭和10年以降、県営による産犢の一斉検査を実施して、血統及び失格、畸形、損徴等の調査をして登録事業の基礎としたことが、本県産和牛の信用を高めることとなった。 戦争が年を追って熾烈となり、牛は軍需品として供出が酷くなっていき、昭和19年農林省は和牛の増殖の必要性から役牛貸付制度を設けて、役牛を無償貸付した。これは戦後県に払下げられ昭和22年県有農用役牛貸付規程を公布して継続実施したが、その後は国の各種家畜導入資金制度へと引きつがれた。 戦後の混乱から県は和牛関係の規則、条例の制定・改廃を行い、徐々にその体制を建て直した。 昭和26年には過去・現在に亘って繁殖に供用された種雄牛並びに種雌牛の繁殖成績を徹底的に調査して、これを基礎として優良遺伝因子の組合せによる計画生産事業に着手し、鳥取県優良和種種牛造成奨励規定を制定し、優良牛及び同候補牛の保留奨励を実施している。 元来和牛は役肉兼用種として飼養されてきたが、昭和30年代後半から耕うん機を主体とした農業機械の普及で役畜としての役割が薄れ、多くの農家が和牛飼育から離脱するようになった。 この結果和牛を早急に役牛から肉専用種に転換する必要に迫られ、県は全国に先がけて昭和40年優良肉用種牛造成事業に着手、優良基礎牛の調査選定と計画交配、子牛の検査、保留育成に努めるなど一連の育種事業を開始して肉専用種としての転換対策を講じた。 和牛改良事業は県を主体として実施されてきたが、経済目的の転換から国も和牛改良事業への取組みを始め、昭和38年肉用牛改良増殖基地育成事業により県に対する助成を開始し、本県も県内3地区に改良基地を設置した。その後昭和45年から肉用牛種畜生産基地育成事業として、昭和54年からは肉用牛集団育種推進事業へと改組し、事業範囲の拡大を図るとともに産肉能力検定を組み込み事業を拡充して和牛の改良促進を推進しており、この方針にあわせて因伯牛の改良を進めている。 また、昭和59年度からは、県畜産試験場において牛の人工妊娠に関する実用化試験に取り組むこととなり、改良進度を早めることが期待される。 昭和58年5月には、酪農振興法の一部を改正する法律が第98国会で成立し、「酪農及び肉用牛生産の振興に関する法律」として肉用牛振興に関する初めての法制化が実現した。 肉用牛生産は農業及び農山村の振興を図る上で重要な役割を担っており、特に牛肉の需要は他の畜産物に比し今後とも比較的堅調に推移すると見込まれること、水田利用再編等農業生産の再編成を進めることが必要となっていること等から、肉用牛生産を土地利用型農業の基軸として位置づけ、その振興、合理化を図ってゆくことが重要な課題となってきている背景によるものである。 この法律の施行に伴って、県・市町村において酪農・肉用牛生産近代化計画を樹立して酪農と一体的に肉用牛生産の振興を図ってゆくこととなった。 |
2.改良と増殖 |
本県の改良方針は本県肉用牛の特質である早熟性・早肥性の助長を図りながら、肉質改善の速度を早め、経済能力の高い肉用牛の造成を基本とし、次の点を重視して改良を推進している。 (1)体型については、体積に富み、体各部の均称及び資質を向上させ、特に中駆・後駆の充実をはかる。 (2)繁殖能力については、早熟で哺育能力及び連産性に富み、産子の斉一性の高いものにする。 (3)産肉能力については、発育が早く飼料の利用性に富み、特に肉量が多く、肉質のよいものにする。 (4)強健で粗飼料の利用性及び放牧適正に富むもにする。 (5)遺伝的改良の推進とあわせて飼養管理技術の改善を図る。 年次別種雄牛けい養頭数 改良目標 |
(種雄牛) |
自然交配にたよっていた昭和20年頃までは種雄牛頭数も多く、県内で![]() 人工授精の発達は種雄牛1頭当りの交配雌牛が多くなることから、体型資質等の表現型の優秀なことに加え、産肉能力等の遺伝能力の優秀なことが要求され、種雄牛の造成は計画的に生産される雄子牛を直接検定し、その成績が優秀なものについて間接検定を実施し、種雄牛としての遺伝能力を判定した後に利用することになった。 授精料金は、従来東部の県有化地域では授精時に種付料として一定額を徴収し、中・西部の民有地域では生産子牛の販売時に子牛価格の4%を種付料として徴収していたが、昭和54年4月の県有化集中管理を契機に授精時に現金で一定額を徴収する方式に改正された(昭和59年2月現在7,200円,90日以内3回まで) 種雄牛は家畜改良増殖法に基づき毎年1回春に県内で供用されている種雄牛と育成中の種雄牛候補について定期種畜検査が実施されている。また、種畜の供給県として種雄牛の県外需要に応ずるため種資源の確保と種畜の規格統一のねらいで臨時種畜検査が実施されている。 |
藩政時代の畜産 牛馬の改良 |
因幡および伯耆二州における牛馬の起源についての文献は乏しく詳らかではないが、とに角、牛は因幡牛、伯耆牛として古くから一般農家に飼育され、馬は一部は武士の武器としてし愛育されていたことは明らかである。勿論現在のように整備された因伯牛としての体型資質は見られず、単に農耕と運搬の目的のため農家に飼養され、品種も雑多であったことは、因府年表にも明らかである。 |
牛馬の畸形 |
牛馬の畸形等に関しては、畜種は世評を恥じる風習が今日でも見られるが、文献にも畸形については多く見ることができない。近年まで双頭仔、無尾牛等の記録が見られるので当時かなりの畸形出現があったものと想像される。そのわずかな記録ではあるが、因府年表によれば、『文化14年5月5日智頭郡山根村の百姓、久米右衛門が家に異形の犢を産す、一角一眼真中にあり、上唇は長く下は短し、足は![]() |
牛市場および牛市興行 |
藩政時代、牛馬の売買交換を重要視し、すでに牛市場を設置したことは、八頭郡史考に次のようにきろくされている。 『享保5年2月藩主において因伯二州の牛市場を制定せり・・・・・・・・・・。面して新に牛市場を設けんとする時は御家老へ請願し、その聴許を得べき制度なり。』 当時、既に時日、場所、区域を定め市場を開設していた。特に市場開設に当っては、、神社の祭礼等人の多く集るときを利用し牛市興行、即ち牛市を催したといわれる。 また鳥取県郷土史によると、大山牛馬市に関する記録として、 『天野助九郎因伯両国の博労頭となり、大山牛馬市の繁盛を謀り畜産の発達に貢献すること多かりき。今猶大山に当時の屋敷跡を存す。丈左衛門は助九郎の男なり、父と同じく馬術に長じ因伯両国の博労頭となり大山牛馬市のため画策するところあり・・・・・・・・・』 と記され、父子二代因伯二カ国の博労を指導し、殊に大山牛馬市の繁栄を図っている。 |
牛銀(うしぎん) |
藩において資力の乏しい一般畜農家に、牛馬の飼養奨励を目的として牛銀の制度を定めたことは他藩に多く見られない制度で、しかも元禄以前において行われたことは、当時如何に牛馬の増殖を重要視していたかがうかがわれる。牛銀の制度とは農家が牛を買う場合願書により希望金額を在方より貸付け、利子は毎年藩に於て定め、秋収穫時期に収めさせたものである。当初牛銀は一般農家に対し恩恵的に牛馬の増殖を目的としたのであるが、その後農家に対する資金、産業資金等を牛銀と呼ぶようになり資金も藩や在方ばかりでなく、一般資産家、寺院等から在方を通じ貸付するものも現われ利子も相当高くなってきて、農家から非難の声があがり、安政5年以後1割利下げしたと言われるが何れにしても藩が牛馬飼養を奨励したことは明らかである。 |
馬扶持および馬庄屋 |
馬は武器として重要であったが、藩政時代、武家において禄高によって馬の頭数を定めていた。 少禄者に対しては馬扶持と称し、馬の資料代を支給していた。また馬庄屋というものをおき、ある頭数を定めて飼養させていた。その上、馬の頭数割に一定の土地、即ち草刈場を与えていたのである。馬庄屋の下に馬小剥(うまこはぎ)という者がおり、馬一切のことを世話していたといわれる。 次に興味あることは、町の酒屋組合から、馬庄屋に対し補助していたことである。これは酒屋のいろいろの荷物の運搬、その他用便のため、必要にせまられて馬を貸してもらうため、酒屋は補助金を出していたのであろうと推測されている。 |
へい死牛馬の処置 |
衛生的見地から、へい死牛馬の処分について古老の言によれば藩においても充分考慮し、因伯二カ国は鳥取田島の穢多頭、孫四郎というものに代々処分させ、その代償として藩へ1ヶ年牛皮幾枚と定めて納付せしめていたという。 |
昭和14年、天野次郎著
因伯二州における藩政時代牛馬史考より |
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